十一月十四日
X 御理解第二十一節
信心せよ信心とは、わが心が神に向ふのを信心と言のじゃ、神徳の中に居っても、氏子に信なければ、おかげはなし、カンテラに油一杯あっても、シンなければ火が点らず、火が点らねば夜は闇なり、信心なければ世界が闇なり、
今日はこの二十一節の
信心せよ、信心とは、わが心が神に向かうのを信心と言うのじ
ゃ、
と言うところと、
カンテラに油いっぱいあっても、シンなければ、火が点らず。
と言うところを頂きます。
だからお互いの信心のシンと言うものが、どこにあるか、そのシンがどこにあらねばならないかと言う事が、一番最初の、信心とは、わが心が神に向かうと言う信心。
自分の心が神に向うておらねばならない。様々な難儀から救い助けてもらいたいと、信心によって救い助けて頂こうと言うところから、信心になってまいりました。
ですから、そこんところのおかげを頂きたいと言うので、一心を立てゝ神様におすがりをする訳ですね、それも、やはり、神に心が向うておる事ですけれども、いよいよ信心の心が神に向うていくと言う事は、それに終始したのでは、神に向うた事にならない。
自分の心がいよいよ神に向って前進しておらねば、神に向って近ずいていきよらない、言うなら、神に向って、近ずいておらねば、いけないのである。
信心が三年たち、五年たち、段々、信心の奥処に向って進んでいく事である、教えを、くわしゅう分かると言う事ではなくて、自分の心ですね、自分の心を、
ここでは、しんと言うのも信と、一字を以て表わしておられるが、その次にはカンテラに油いっぱいあっても、シンなければと、ここではシンと片仮名で書いてありますね。
ですから、ここんところは、自分の頂いておる信心の中心が、どこにあるか、これがもし、いつ迄も、いつ迄もですよ、唯、災難よけや病気直しのところにシンがあるとしたら、これはもう神に向っておる事じゃないのです。
ですから、初信の人達が難儀から、救い助けて頂きたいと言うて、神様へ向ってくる時には、確かに心が、神に向うておるのですけれども、信心が少し分かりだしてです、私は信心が進められてくる事になると、そのシンと言う焦点が段々神に向っておらねば、ならないと言う事。いわゆる神心に近ずいておらねばならないと言う事。 そこで現在の合楽、特に、こうやって、朝参りをされるという方達の、シンというものが、どこに置かれておるかと、今、青年会の方達の場合なんか、おそらく、十七日の青年大会の事にしぼられておるのじゃなかろうかと思うのです。それであったら、あゝた方のシンは、神に向っておるのですよ。その為に、切実な修行が出来ておるとするならば、
ところが、そのシンが、どんな高度なところにおかれておっても、そのシンに火が点らなければ、例えば、世界が闇なりとおっしゃるが自分達頂こうと言うそのおかげも、おかげは闇である。
神徳の中に居っても、氏子に
信なければ、おかげはなし、
ここでは、信ずる心だと言う事だと思うのですけれども、信ずる心と言うものが、段々おかげを受ける事によって、確信ずけられてくる、そう言うシンがあっても、それに火が点らなければいけない。 火が点ると言う事は、どう言う事かと言うと、信心が段々熱烈をきわめてくる事ですけれども、
昨夜、企画の方達が寄って、ここの造園の事についての、お話し合いがあったのです。その時に、ここの松の木が枯れてしまいましたが、昨日、田主丸の長寿園の方達がおみえになって、いろいろ御相談にのって下さったのですけれども、その時言われるのに、
松の木が、もう枯死寸前と言うのでもね、スルメを五、六匹煎じるそうです、それを松の根元にかけたら、大抵のは生き返ると言われるのです。
まじないのごたるでしょうけれども、特効薬のようなもんでしょうねえ、それで、ここの松がきつがっておるから、とにかくスルメを煎じてから、かけてやりなさいと言う訳なんですよね。
その事を、頂くのです。今朝方。
私は、その事とは関係ないのですけれども、何日か前に、松の木が非常に、しおれた松の木を頂いたんです。
その時、私は、それを、九州の現在の信心と思ったのです。
私共がよく御本部参拝に参りますと、九州の信心は強い、九州の信心は素晴らしいと、よく聞くのですけれども、それはもう、今の話ではなく、昔の話しである、
例えば、十二月十日の奉徳祭、当時は、それを、四神金光様のお祭りと呼ばれておった。今は、四神金光様、三代金光様のお祭りと言う事になっておるのですけれども、その四神様のお祭り、奉徳祭は、九州のお祭りと言われた、もちろん、小倉の桂先生が一番最初に発起されたお祭りですから、九州のお祭りと言われた、これはもう九州あげて、お参りさせて頂いたのですけれども、最近では四神様のお祭りと言うのに、団体車が出来ない位ですよ。
本当に勿体ないお話でしょうが。と言う程しに、その松の信心が枯死寸前と言うちゃならんけれども、勢いがないと言う事。
その勢いのない信心を、誰が生き生きとさせるか、私は思う。合楽にかけられておると私は思うのです。本当に思い上がりと言われるかもしれんけれども、これは、合楽だけの事ではないですよ。そういう松の信心が生き生きとする事の為にかけられておるのは、うちの教会だと、言う位な熱意を各教会が持たなければならないと思うのです。
ですから、例えば今度の青年会の会合がです、盛大をきわめると致しましょうか、それはね、合楽教会の御比礼と言う事と同時にです、それは、そのまま九州の道の上の、御比礼であるとして、私共は、願っていかなければならない。
焦点が神に向ってきた訳である。
どこ迄も自分一人の為、自分一家の為。よし、それであってもですね、シンが神に向うておらなければならない、そんなら、シンが神に向うておるだけではいけない、そのシンに火が点らなければいけない、
ですから、自分の信心過程というものがです、自分一人の事ですらが、やっと、かっと、いやもう自分一家の事でもう、つういっぱい、もう、自分の教会の事だけでいっぱい、と言うのがです、段々、こう九州の道の上に、又は、日本全国の、いわゆる本当に、教団の繁栄と言うか、御比礼の為にです、と言う様に、私共はその一足飛びには出来ません。
ですから、自分の心が、神に向うて、一段一段進んで、いきよらなければ、信心が成長しよるとは、言えないと私は思う。
そこで、私は思うんですけれどもね、お互いがひとつ、道の為に、教団の為にと、もちろん、そういう理想と言うものを、目指さんならんけれども、まず現在ではです、九州の道の上に、合楽の御比礼がつながる、おかげにならなければならない、
そこに皆さんシンを置き変えねばいけません、 そして、そのシンにです、火が点じなければ駄目です。そんなら、火が点るとはどう言う事か、もう皆さん、想像がついておられるだろうと、こう思う。
「いわゆる、松の根元に、スルメの煎出し汁をかける事」
それが火が点る事なんだ、
ここで、スルメのお知らせは改まりとおっしゃる、その為にはまずスルメを入手しなければならない、
ゆうべ佐田さんが、その事を聞いて言いよんなさいました。
「そんなら、スルメの悪かつば、うちから持ってこう」簡単に佐田さんに頼めば出来る事なんです。
そこで皆さんもやはり、スルメを入手する為に、佐田さんに頼まにゃいかん。佐田さんと言う事は、ニン遍に左と書いちゃる、いわゆる御結界におすがりしなければならない。親先生の信心にすがらなければ駄目だ、
これだけは、今でも私の耳に残っておる事は、田主丸の石井清子さん、もう毎日毎日が、それでした。
それは自分自身の心の中にです、大きなガンを発見した、ですから、その事に取組んで「今日も、どうぞ、改まらして下さい」これ一つでおかげ受けてこられた。
毎日が、そうでした。しかも、毎日、もうさらな、思いと言うか、さらな願いでした。しかも、その、改まると言う事について非常に具体的であった、それは、もう内容は御結界以外には、お届けの出来ない内容のものであった。
「今日も、その事に取組ませて下さい」と言う訳なのです。 今そう言う信心がなくなった様な感じですねえ、あれだけ、改まると言う事に熱をかける一方、その改まるところすらをぼかしておる、入手しておらん。まあだ、まあだ、佐田さんに頼んどらん。
私は、こゝから見よるから大体分かる、この人はここを改まらんならんと、ばってん、自分な、その痛かところには触れられまいふれられまいと言う感じがする。
ですから、教えを頂いて、自分で分かり、自分で気付かしてもらう、又、難儀のたんびにです、自分がいっちょ、ここが改まらなければ、自分が助かんだけではない、周囲迄が助からんのだと言うですねえ、おかげを頂かにゃならん。
私は、一番有難いと思う事は、松の根にスルメをかけると言う事は、私自身が生き生きしてくるだけではなくてです、枯死寸前の松が生き返ると言う位ですから、そう言うお陰がうけられる、
本当に、道の比礼を願われて、そのかわりに、私が、ここを改まりますからと、言う事になれば、松が生き生きしてくるだけでなくて、自分自身が助かる事なんですよ。
唯、九州の道の上の為に、私が水をかぶります、九州の道の発展の為に、私が断食をします、それだけでは大した事ないけれども、九州の道の比礼の為にです、私が、もう、スルメにならなければいけん。
この事だけは、一途スルメ、この事だけは一途してはならんと心に決めた事を神様にお供えしきってしまう信心はですね、その松が、いよいよ生き生きしてくるだけでなくてね、自分自身が助かるんです。自分自身が楽になる。
それだけではなくてです、その私が改まると、家内や、子供が楽になるのです、ですから、これはもう本当に、一挙両得、三得にもなるのですけれども、だから、願いの焦点と言うものが十年前も今日も、同じであってはならない、
今、例えば、合楽に求められるもの、これは、私の思い上がりかもしれない、けれども今、合楽に求められるものはです、何か。
九州の道の比礼の為にです、言うなら、枯れかゝってはおらんにしても、元気が弱っておる、その松の為にです、その松が生き生きしてくるところの、おかげを、頂くと言う事だ。
最近、皆んなが、合楽の信心に関心を、持ちだしてきた。先日から、熊本では、一番と言われる、木山教会の青年会の方達が、ここえやってきておる。
それから、何日かして、山口県の田布施と言う所から、これも山口一番の御比礼の輝いておる教会ですが、総代幹部と言う人達が、十五、六人、ここえ訪ねて来ておる。
洞海地区の信徒会の人達が、これは、十七日の日に、こゝに、お引寄せを頂きたい、そして、こゝの中心であるところの私の話を聞きたいと、言うて手紙が来ておる。
そう言う風な事は、誰彼が来たと言う事ではなくて、結局です、私はその神様の願いを、そこに聞く様な気がする。
もし、ここに生き生きした御比礼があったらですよ、皆んな、その生き生きした御比礼を頂いて帰るのです、それが道の比礼に、お役に立たないはずがないのだ。
丁度その日は青年大会の日ですから、なんとはなしに、御広前全体が生き生きしてくるでしょう。そう言うところえ皆んなが訪ねて来る訳ですから、いやが上にも、そう言う雰囲気が盛り上がってくるだろうと思うのです。そあいて、そう言う生き生きしたものが、どこにあるのか、と皆んな追求してくるだろうと思うのです。そこに探究される、追求される、
そこにです、なる程、これなら、おかげ頂けると言う様な、ものをです、私共が頂いておかなければならない。又、示していかなければならない。
お互いの信心が、何時までも小さいカラの中に閉じ込もっていてはならん。現在のせめて九州の道の上に、先覚の先生方がせっかく、うち立てられた御比礼と言うものをです、今一度ここに燃え立たせる様な信心が打ち立てられなければならない。そう言う願いが合楽にかけられておると私は思う。
だから私はそれに、こたえなければならない責任がある。と言う事は皆さんにも、その責任があると言う信心を頂かれてです、皆さんの願いの焦点を、もうちょっと高度なものに、
合楽の教会の御比礼を願われる事も結構、けれども、合楽の御比礼の、それを、もう少し高い所に置き変えて、九州の道の上に、合楽全体がこう改まりますから、と言う信心によって、それが火を点ずる事になる。
そして、よくよく後から考えてみると、一番おかげを受けたのは私である、と言う事になる。自分自身が一番楽になる。だけではない、自分の周囲が皆んな楽になると言う訳なのです。
今日の御理解は、松を中心にせなならんのですが、そして、そこにスルメの汁をかけると言う事は、改まると言う事。そんなら改まると言う事は自分自身が助かると言う事。
同時に、これは絶対と言う程に、枯れかかっておる松に、スルメの汁をかけたら、必ず生き上がると、言われる様にです、松も生き生きしてくる、いわゆる神様も喜んで下さるなら、私共も喜べるおかげがそこにはあると言う事。今日は、
信心せよ、信心とはわが心が神に向かう
のを信心と言う
と言うところと、
カンテラに油いっぱいあってもシン
なければ、火が点らず、
と言うところ、だから、そのシンが神に向うておらなければ、シンとは言われん、神に向うて、一段ずつ高められてこなければ。
今迄は合楽の教会の事ばっかりじゃったが、今迄は自分の事ばっかりじゃったけれど、そう言う人は、今度の例えば、造園の事に一生懸命になるがいい、それは、今の青年会の方達が大会の事に一生懸命になっておる様に、自分の事をおいて、その事に一生懸命、心を向きなおすがいい。
合楽の教会の事を一生懸命皆さんが、願い思うておった事をです、九州の道の上にひとつ思いをかえて、だから、そのシンが向けられるだけでなく、そのシンに火が点じられなければならない、このシンに火を点ずるものは何かと言うと一途スルメである、改まりである、その改まりの熱情が火を点ずる事になります。
九州の道の上に、それこそ、大きな火が点る訳である、そしてよくよく考えてみると、合楽教会が、その光の大元になっておると言うおかげを頂きたい、それを、又、よくよく考えると、自分一家の光が一番大きいと言うおかげになっておらなければならない。
よくよく考えると、自分の心の中の光が、一番おかげを受けておると言う事になる。
自分一人の例えば光が、家の中、自分の職場の中に、教会に、それが九州の道の上に、輝くような、火の点じ方をしなければいけない、
九州の道の上に、世は闇なりと言う訳ではなかろうけれども、そういうなんとはなしに、うす暗うなっていきよるのを感ずる、
どうぞ新たな光が、合楽がその光の発祥になるのだと言う、お互いが自覚と言うか、そういう自覚を持って大いに改まていかなければならない、いわゆる大いなる改まりである、もう小さい病気直しの為に、改まると言うにじゃない、九州の松が生き生きしてくるように、九州の各教会に輝く様な御比礼を頂く事の為に、私共は奉仕したい。
そういう意味合いに於ての大いなる改まりをさせて頂きたい、それが私は、
信心せよ信心とは、わが心が神に
向うのを信心と言うのじゃ
と言う事だと思う。
まずそこのところへ心を向けて、火を点じさせてもらう、火を点ずると言う事は、今日、私は改まると言う事と言った、改まる事によって火が点じられるおかげを頂きたい。
そして、一番おかげを受けておったのは自分自身である、と気付かして頂けるおかげを頂きたい。 どうぞ